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ワイン造りの思想

 私の考えるワイン造りは、造る人の思想や哲学、その土地の風土や文化をワインの中に表現するものだと考えております。これを表現したくワインを醸しているのであって、経営者になりたくDomaine(ドメーヌ)を始めた訳ではありません。可能な限り粛々とワインを造る農民(ヴィニュロン)でいたいですし、自分の哲学を持つ職人でいたいのです。形やイメージばかりが先行する思想のないワイン造りをするようなことだけは、したくありません。今でも、どこまで小さな規模で、自分のワイン造りが行えるか模索しています。規模が大きくなればなるほど、思想が詰まったワインは造れなくなると思っているからです。
また、私の思い描くワインは、農民でなければ造れないものだと思っております。醸造家と言う言葉がありますが、ワインにはその言葉は必要ありません。ワインは畑で出来るものだからです。ワインとは何か?テロワールとは何か?見つからない答えを探し続けるヴィニョロンでいたいです。

自然について

 ヴィニフェラ(ピノ・ノワールなどヨーロッパのブドウ)を自然へ戻す努力を試みますが、人間同様、すでに完全な自然へ帰れない植物です。むりやりジャングルに返すと、返すもの、返そうとするもの、周りにいるもの 皆 火傷をします。ワインを造るもの、飲むものが、自分にとっての自然のラインはどこにあるかを考え悩み始めた時、涙が出るような感激できるワインと出会える時が来ます。そして、ワインを飲みながら、そのワインに出会えた理由をゆっくり考えると「人間にとって本物の自然のライン」が、ぼやけた先に見つけることができる気がするのです。しかし、それを早く見ようと焦れば、必ず歪みが生まれてしまいます。ワインを用いて、急いだ地球環境改善を促すことは出来ないが、人間が本来持っている「自然を労わる優しい心」を少しでも呼び起こすことは十分に可能です。自分にとっての自然な栽培と醸造とは何かを理解できたヴィニュロンのワインには、そんな力があるような気がします。しかし、対照的に、造り手の影響により、人工的なマニュアル世界へも導く力がある飲みものでもあることも理解しなければなりません。私達、現代の人間は、皆、縦に掘った深い穴の中にいます。振り返って見上げてみても、見えている自然は光と丸い穴だけ。見えている自然は所詮、マトリックスの世界。人間が勝手に想像した自然の世界。進む手段は下に穴を掘るしかない。横に掘っても自然光を失い、早く何も見えない世界へ行くだけ。今の人間は無限につづく穴の先に何があるのかを知りたい欲望にかられているだけ。穴の先には欲と言う暗闇があるだけなのに。本物の自然を見つけるには、這い上がり穴の上に広がる世界を見なければなりません。でも、すでに僕達人間は這い上がる手段を知らない。私達が醸すワインは這い上がるためのツールではないが、穴の上の世界をいちじてきに覗かせてくれる、いくつかあるツールの1つである気がしてます。おそらく、どのような手段であれ、穴の上を少しでも覗けた人間は、もっとその先に広がる世界を見てみたいとの欲望に襲われます。その時、人間は穴掘りから解放されるのかもしれませんが、おそらく穴から這い上がることは出来ないと思います。こんなことを考えると、福岡正信さんの本を思い出します。私はワインを通じて、政治や環境に直接影響を与えようとか、全く考えていません。地域の中で少しづつ小さな花を咲かせ、それを周りに増やし、そして続けさせて行くことが大切な役割だと思っております。私には能力がないので、今はそれに集中するだけ。100年後の人達がワインを通じて穴の上を覗くためのツールを、少しでも沢山残しておくことが、今の私の仕事なのです。

Domaine Takahiko(ドメーヌタカヒコ)とは

本来、農場名には「Vinyard」や「農園」と言ったわかりやすい言葉を用いるべきだと思いますし、日本人であるのになぜ農場名に日本の言葉を使用しないのか?と今でも自問自答を繰り返しています。
しかし、私は「Domaine」と言うフランスの伝統の中で作られた言葉の重さで、自分を縛りたいと思っております。この言葉に隠された本当の意味の重さを背負わないと本物のワインを造る農夫になれない気がするのです。
 また、私の名前であるTakahikoを使用することにおいても、私の造るワインは会社が作るものではありません。自然を少しでも理解しようとする人間が造るものです。造る人の考えで、テロワールの意味や、ワインの味や香りまでが変わります。ワインと言うものは、自然と自分を表した作品であると思うのです。素晴らしいワインは自我の塊です。ですから私は、ワイン名に自分の名前を表記しております。

理想のワインとは
私にとっての理想の日本で醸すワインは、味、香りにおいて日本の風土に馴染み、日本の食の美しさを表現できるワインであること。世界の人々に溶け込むグローバルワインでなく、グローバルとはかけ離れた私たち農民の生活の中にも溶け込み、涙を流せるような感激を味わえるワインを理想としている。ミネラルより旨味を重視し、果実味より森のような繊細で複雑な香りを重んじるワイン。瓶熟においては、美しく日本の森や里山の四季を表現できるワイン。20年以上寝かせて、熟成の過程で四季を表現できるワインも素晴らしいと思うが、個人的には年月が長ければよいとは感じていない。やはり30年必要とされるワインにおける春や夏の風景は、重すぎて日本の食材や食文化に馴染みにくいと感じる。一方で力のないワインは、春と冬は表現できても、夏と秋を表現できないことが多い。ます。大切なことは、夏と秋の風景をいかにワインで表現できたが非常に大切なことであり、その四季を10年で表現できるのであれば、素晴らしいことであり、すごいことである。いくら長く熟成できても、美しい紅葉の秋(初秋)を表現できなく、深い秋(晩秋)になってしまうワインではダメなのです。日本のワインであるなら、各四季における日本の神社仏閣の参道を歩いているような「春」「夏」「秋」「冬」を表現しているようなワインを醸したい。特に私は紅葉が綺麗でブドウも実り、花が咲いて、キノコも穫れる秋の始まりが好きであり、それを美しく表現できるワインを醸したい。
農業について

私の農業の思想は、継続可能であること。 私だけが行える栽培法ではだめなのです。私の周りで広がり継続していく農業でなければならないのです。化学農薬に偏った農法は、おそらく続かないでしょう。一方で、周辺の農家が真似できない農法も続かないと感じております。また、農薬漬けのブドウを醸し、テロワールなどと言って良いのでしょうか?自然を敬い栽培が続けられてこそ、テロワールが反映されるものだと私は考えております。しかし、農業と言うものは必ず人間が手を加えるものです。けして自然ではありません。人間が手を加えれば、必ず自然は変わってしまいます。それをしっかり理解していなければなりません。自然とどのように接し、どう向き合い、そして、どこまで手を出すべきか?その答えは今でも見つかっておりませんが、自然を敬い感謝する気持ちは、絶対に忘れるべきでないと思います。それには、私達農夫は、自然と向き合い、話し合える感性が必要なのです。マニュアルに忠実な農業ではダメなのです。

ワインについて
醸造の考えの基本は昔しに戻ることです。現在の最新の乾燥酵母、最新の除梗破砕機、最新のステンレスタンク、最新のろ過装置、最新の清澄剤などが、職人としての「感性」を奪い、ワインから哲学やテロワールを奪ったと私は考えております。熟した葡萄が収穫されれば、ワイン造りにおいて小手先は必要ないのです。ワインは畑で造られるものであり、工場で造られるものではありません。マニュアルで造るものではないのです。
一方でワインに関わる微生物を苦しませてなりません。我が子を思う親のように微生物達にも接することが出来る感性が必要なのです。自分の子供をマニュアルを見ながら育てる親ではだめなのです。
私のワイン造りは、そのまま除梗を行わず、全房で仕込みを行います。ポンプなどを出来る限り使わず、バケツや重力でワインを移動させます。今は亜硫酸は基本、赤ワインには使いません。樽においては、平均15年使用の樽を使用しております。私達